2011年 12月 31日
ちょっと歴史の裏舞台 |
2011年の総括&年末年始のご挨拶
今年の漢字 『絆』
今年ほど家族・兄弟・親戚・仕事の仲間・取引先のみなさん・・・など
『人と人のつながり』を意識した年は俺も、多分見てくださっているみなさんも
再確認し思った年は無かったんじゃないでしょうか?
自分も昨年から年初はボロボロになり、結局仕事を辞め、
有難いことに昔1年だけお世話になった社長に拾っていただき、
叱咤・激励、前所属の会社の仲間に心配もされ、年末は近しい人が逝くこともあり、
12年ぶりに兄弟がそろって会うことができ、
それ以上ずっと会えなかった親戚・従兄妹達にも会い、
嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、全部まとめて起こった年に俺はなりました。
悲しいことですが震災が起こったことで
日本人にとって『絆』というのは忘れられていた言葉の一つで、
それこそ再確認する事だったんではないかと思います。
核家族化が進み、孤独死などの問題増加など、会社でいえば上下だけのつながりの重視、
日雇い労働者が溢れ、皆孤独なか黙々と日々を生活している・・・いたと言っていいかもしれない。
前の会社でもそうだったのだが、縦のつながり(トップダウン)はあっても
下の者はそれは理想であって現実を見てくれない不満がいつでも付きまとう。
ただ不満を言いそれぞれ考えつつも、仕事をする。
そんな時に横のつながりというべきなのかどうかはわからないが、
正社員の同僚・現場のスタッフだったりがそれぞれの考えを纏め、頑張ってみる。
そういうのがどれだけ助かるか、骨身にしみたね。
ただ、時代の流れや不景気の押しに現実負けてしまっている。
それは日本全体がそういう状態。
総理がダラダラやってるから・・・・とか皆いうが、たしかにそうだったかもしれない。
だが、言葉足らずでやっていることはあったとは俺は思うよ。
強いリーダーシップが必要!とか言ってるけど、俺が思うに上下・左右がうまくつながるから
家族でも会社でも政治でも、その両輪があるからこそ前進する。
車の前輪だけ動いても、後輪は何かの障害を受け動けずにいる。それこそスタックってやつで。
上から横からそれを見ているだけではなく皆で助け脱出すること。
上下縦横がうまくつながる『絆』が震災で言えばの早い復興へつながると思うわけ。
これってなんでもそうよ。
俺の好きな武将『毛利元就』
百万一心の石碑『1日1力皆で助け合い、事に当たれば大事なし』という意味なんだよね。
毛利元就はホントは二男で本家を継ぐ資格はホントはない。
当時の毛利家は強大な大内・尼子家に挟まれ・周りは大小敵だらけ。
そんな時に本家の長男が死に色々あって本家を継ぐことになる。
良い悪いこともやっているが何とか毛利家を大きくしてゆく。
しまいにはその大内・尼子も滅ぼすまでになり、
中国地方・北九州・四国まで広がる大大名にのし上がる。
これは元就を中心とした家族の結束があったからこそ成し遂げられたといっていい。
そして有名な『三本の矢』の話(これは創造で現実はやってない)があるが、
死んでしまった正妻の子供3男1女(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景・宍戸家嫁 五龍)は
ホントは皆自分の主張だけを言い仲が悪く、元就は何度も皆に(仲良くしろ!)という手紙を書いていて
その手紙には死んだ正妻がいたら、こんなこともなかっただろいうような弱みとかも書いている。
策謀の将と言われてる元就だが、人間臭さ満載な人。
のち長男である隆元が先に死んでしまうが、隆元の息子輝元の後見を
他家に養子となっているはずの元春・隆景に
『お前らの家もあるが、なんにせよ毛利家のためすべてをつくせ。そして輝元を補佐しろ!』
『今ある領地以上を望むな。毛利家を残せ』
と言い残し死んだ。後妻の息子たちもいるがその皆も毛利家のために動いた。
中でも忠実に遺言を守り、特出しているのが、小早川隆景と吉川広家(元春の息子)
小早川隆景は豊臣秀吉から『俺のおい(小早川秀秋)を毛利家にやろう』と言われます。
その当時は秀吉に逆らえば毛利家は乗っ取られ、首も飛びかねない。
それを危惧した隆景は『わかりました。ただ、毛利家ではなく私の養子にいたします』と受け入れた。
吉川広家は関ヶ原の戦いでは表上西軍(毛利輝元が西軍の総大将だったため)で参戦。
広家は小心者の小早川秀秋の裏切りを多分わかっていたんだと思われ、
のちの毛利家の取り潰しを危惧。
さらに狼煙も見えない毛利本軍の目の前に配陣し前をふさぐ。
自分が動かず蓋をしてしまえば毛利本軍は動けない。広家は頑固として動かない。
案の定石田三成の再三の参陣狼煙も効果はなく、1日で関ヶ原の戦いは終わる。
西軍の総大将の毛利輝元はこの時点で領地すべて没収になるはずだったのを、
再三毛利家存続を訴えたのが広家だった。結果広島城没収で山口・萩などの小さな領地で
毛利家を存続させることができた。これが幕末いわゆる長州藩・徳山藩になるわけ。
広家は他の毛利家親類からは疎まれた。『自分らが動けば勝つことができた』と。
だけど、他家からきた小早川秀秋裏切りを知っていたからこそ、先を読んだ。
それが明治維新につながるんだよね。
おもしろいでしょ?
こういうのって今も同じよ。
『絆』
皆家族・同僚・友人・その他諸々大事にしましょう。
長々と歴史談義をしてしまいましたが、年末年始の暇つぶしにでもしてくださいな。
では!みなさま良いお年をお迎えください。
俺はこれから大雪ですので雪かきです。汗だくになり、サスケの散歩で終了。
普通の飯食いそうですがね。
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今年の漢字 『絆』
今年ほど家族・兄弟・親戚・仕事の仲間・取引先のみなさん・・・など
『人と人のつながり』を意識した年は俺も、多分見てくださっているみなさんも
再確認し思った年は無かったんじゃないでしょうか?
自分も昨年から年初はボロボロになり、結局仕事を辞め、
有難いことに昔1年だけお世話になった社長に拾っていただき、
叱咤・激励、前所属の会社の仲間に心配もされ、年末は近しい人が逝くこともあり、
12年ぶりに兄弟がそろって会うことができ、
それ以上ずっと会えなかった親戚・従兄妹達にも会い、
嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、全部まとめて起こった年に俺はなりました。
悲しいことですが震災が起こったことで
日本人にとって『絆』というのは忘れられていた言葉の一つで、
それこそ再確認する事だったんではないかと思います。
核家族化が進み、孤独死などの問題増加など、会社でいえば上下だけのつながりの重視、
日雇い労働者が溢れ、皆孤独なか黙々と日々を生活している・・・いたと言っていいかもしれない。
前の会社でもそうだったのだが、縦のつながり(トップダウン)はあっても
下の者はそれは理想であって現実を見てくれない不満がいつでも付きまとう。
ただ不満を言いそれぞれ考えつつも、仕事をする。
そんな時に横のつながりというべきなのかどうかはわからないが、
正社員の同僚・現場のスタッフだったりがそれぞれの考えを纏め、頑張ってみる。
そういうのがどれだけ助かるか、骨身にしみたね。
ただ、時代の流れや不景気の押しに現実負けてしまっている。
それは日本全体がそういう状態。
総理がダラダラやってるから・・・・とか皆いうが、たしかにそうだったかもしれない。
だが、言葉足らずでやっていることはあったとは俺は思うよ。
強いリーダーシップが必要!とか言ってるけど、俺が思うに上下・左右がうまくつながるから
家族でも会社でも政治でも、その両輪があるからこそ前進する。
車の前輪だけ動いても、後輪は何かの障害を受け動けずにいる。それこそスタックってやつで。
上から横からそれを見ているだけではなく皆で助け脱出すること。
上下縦横がうまくつながる『絆』が震災で言えばの早い復興へつながると思うわけ。
これってなんでもそうよ。
俺の好きな武将『毛利元就』
百万一心の石碑『1日1力皆で助け合い、事に当たれば大事なし』という意味なんだよね。
毛利元就はホントは二男で本家を継ぐ資格はホントはない。
当時の毛利家は強大な大内・尼子家に挟まれ・周りは大小敵だらけ。
そんな時に本家の長男が死に色々あって本家を継ぐことになる。
良い悪いこともやっているが何とか毛利家を大きくしてゆく。
しまいにはその大内・尼子も滅ぼすまでになり、
中国地方・北九州・四国まで広がる大大名にのし上がる。
これは元就を中心とした家族の結束があったからこそ成し遂げられたといっていい。
そして有名な『三本の矢』の話(これは創造で現実はやってない)があるが、
死んでしまった正妻の子供3男1女(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景・宍戸家嫁 五龍)は
ホントは皆自分の主張だけを言い仲が悪く、元就は何度も皆に(仲良くしろ!)という手紙を書いていて
その手紙には死んだ正妻がいたら、こんなこともなかっただろいうような弱みとかも書いている。
策謀の将と言われてる元就だが、人間臭さ満載な人。
のち長男である隆元が先に死んでしまうが、隆元の息子輝元の後見を
他家に養子となっているはずの元春・隆景に
『お前らの家もあるが、なんにせよ毛利家のためすべてをつくせ。そして輝元を補佐しろ!』
『今ある領地以上を望むな。毛利家を残せ』
と言い残し死んだ。後妻の息子たちもいるがその皆も毛利家のために動いた。
中でも忠実に遺言を守り、特出しているのが、小早川隆景と吉川広家(元春の息子)
小早川隆景は豊臣秀吉から『俺のおい(小早川秀秋)を毛利家にやろう』と言われます。
その当時は秀吉に逆らえば毛利家は乗っ取られ、首も飛びかねない。
それを危惧した隆景は『わかりました。ただ、毛利家ではなく私の養子にいたします』と受け入れた。
吉川広家は関ヶ原の戦いでは表上西軍(毛利輝元が西軍の総大将だったため)で参戦。
広家は小心者の小早川秀秋の裏切りを多分わかっていたんだと思われ、
のちの毛利家の取り潰しを危惧。
さらに狼煙も見えない毛利本軍の目の前に配陣し前をふさぐ。
自分が動かず蓋をしてしまえば毛利本軍は動けない。広家は頑固として動かない。
案の定石田三成の再三の参陣狼煙も効果はなく、1日で関ヶ原の戦いは終わる。
西軍の総大将の毛利輝元はこの時点で領地すべて没収になるはずだったのを、
再三毛利家存続を訴えたのが広家だった。結果広島城没収で山口・萩などの小さな領地で
毛利家を存続させることができた。これが幕末いわゆる長州藩・徳山藩になるわけ。
広家は他の毛利家親類からは疎まれた。『自分らが動けば勝つことができた』と。
だけど、他家からきた小早川秀秋裏切りを知っていたからこそ、先を読んだ。
それが明治維新につながるんだよね。
おもしろいでしょ?
こういうのって今も同じよ。
『絆』
皆家族・同僚・友人・その他諸々大事にしましょう。
長々と歴史談義をしてしまいましたが、年末年始の暇つぶしにでもしてくださいな。
では!みなさま良いお年をお迎えください。
俺はこれから大雪ですので雪かきです。汗だくになり、サスケの散歩で終了。
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by wakusan5572
| 2011-12-31 12:08
| 珈琲の時間